LOGIN「祖母が……華枝祖母様が、倒れたそうだ」
「え……っ」「本邸の庭を歩いている途中で、急に胸を押さえてうずくまり、そのまま意識を失ったと。今は佐々木院長のいる、うちの系列の総合病院に緊急搬送された」 華枝様が。 あんなに背筋が伸びていて、威厳に満ちて、九龍の大黒柱として揺るぎない存在だった、あのお祖母様が。「急性心不全らしい。……急いで着替えてくれ、朱里。君も一緒に来てほしい」「わかったわ!」 私はエプロンを外し、慌てて寝室へと駆け込んだ。 十五分後。 私たちは、深夜の首都高速を走る黒いハイヤーの後部座席に座っていた。 窓の外では、オレンジ色のナトリウムランプの光が、等間隔でビュンビュンと後ろへ流れていく。 車内は、恐ろしいほどの沈黙に包まれていた。 タイヤがアスファルトを擦る低い摩擦音と、エンジン音だけが、耳の奥でくぐもって聞こえる。 湊は、窓の「じゃあ、更新します。今日も、明日も。たぶん、喧嘩した日も」「たぶん?」「その時の湊の態度次第かな」「厳しいな」「妻なので」 そう言うと、湊の目がわずかに揺れた。 妻。 その言葉を、彼はまだ時々、新しい宝石を掌に乗せたみたいに受け取る。大切で、少し怖くて、でも決して手放したくないものを見る目で。「……もう一度」「え?」「今のを、もう一度言ってほしい」「妻なので?」「違う。いや、それも悪くないが」「悪くないんだ」「朱里」 少し拗ねたような声に、私は負けた。「更新します。今日も、明日も」 湊の表情が、ゆっくりほどけた。 その顔を見たら、胸の奥がいっぱいになって、私は続きを言えなくなった。 湊は私の手を引き寄せた。距離が、静かに縮まる。シトラスと、温室の湿った土と、白い花の匂いが混ざる。「朱里」「はい」「愛している」 何度聞いても、慣れない。 でも、もう逃げない。「私も、愛してる」 答えた瞬間、湊の腕が私を包んだ。抱きしめる力は強い。けれど、苦しくはない。彼の肩越しに、白い花が夜の空気を吸って、ほんの少し揺れていた。 あの頃の私は、復讐のために完璧な恋人を探していた。 五万円で雇ったはずの恋人は来なくて、代わりに現れたのは、月額三百万円の契約を平然と差し出す、どうしようもなく傲慢で、不器用で、孤独なCEOだった。 最悪の嘘から始まった。 見栄も、誤解も、契約も、傷もあった。 それでも、全部を否定しなくていい。 あの夜の私が、間違えて掴んだ手。 その手を、今の私は、自分の意思で握っている。「人生には、上り坂と下り坂と、まさかの坂があるって言うわよね」 自分でも少し唐突だと思いながら、私はそう言った。 いい時もあれば、悪い時もある。そして、思いもしなかった出来事に足元をすくわれる時がある。誰かに裏切られることも、五万円
平然としているけれど、耳の先が少し赤い。 私は紙をそっと持ち上げた。 第一条。 乙は甲に、毎月三百万円を請求しない。 第二条。 甲は乙を、金額で買おうとしてはならない。 第三条。 互いの仕事を尊重すること。忙しさを言い訳に、相手の手を離さないこと。 第四条。 喧嘩をした場合、契約解除ではなく、話し合いによる更新協議を行うこと。 第五条。 上記の条項にかかわらず、甲は乙を生涯溺愛する。「……第五条だけ、湊の願望では」「義務だ」「自分で自分に課す義務?」「問題があるか」「問題というか、重い」「今さらだな」「開き直りましたね」「君が僕を選んだ時点で、ある程度は諦めてもらうしかない」「夫婦の誓いで、それ言う?」「本音だ」 あまりに真剣な顔で言われて、私は笑ってしまった。 笑った拍子に、目の奥が熱くなる。 この人は、どこまでも不器用だ。契約から始まった傷を、契約という形で冗談に変えようとしている。嘘をなかったことにするのではなく、笑って振り返れる場所まで、私ごと連れていこうとしている。「あれ。サイン欄、ないんですけど」「ある」 湊が紙の下を指さす。 そこには、小さくこう書かれていた。『署名欄は不要。毎日、互いを選ぶことをもって更新とする』 喉の奥が、きゅっと鳴った。 ひどい。 こんなの、笑うしかないのに。 泣くしかない。「ずるい」 やっと出た声は、少し震えていた。 湊は、困ったように眉を下げる。「泣かせるつもりではなかった」「たぶん、毎回そう言ってる」「反省はしている」「改善は?」「……努力する」「今の間、ものすごく気になるんだけど」「できると言い切るほど、僕はできた人間じゃない」 低い声が、そ
湊は、ようやくこちらを見た。黒い瞳の奥に、少しだけ悪戯めいた光がある。 CEOの顔ではない。九龍家当主の顔でもない。 私の夫の顔だ。「君に、見せたいものがある」 差し出された手を、私は見つめた。 初めて会った日、私はこの手を勝手に掴んだ。遅い、と怒鳴って、時給分働けと詰め寄って、人生で一番ひどい誤解をした。 今は、彼が差し出す手を、自分で選んで取る。「変なものじゃないでしょうね」「僕の信用は、まだその程度か」「前科があります」「契約書を燃やしたことか?」「それ以外にも色々」 湊は低く笑った。 私は彼の手を取った。 写真の中の私たちが、白い額縁の向こうから見送っている。血筋だけでは作れない家族。選び直した人たちの肖像。その前を通り過ぎて、私たちは温室へ向かった。 ◇ 夜の温室は、昼間とは別の場所みたいだった。 ガラスの天井越しに、月の光が薄く落ちている。白いマーガレットは眠っているように花びらを少し閉じ、葉の先には水滴が一粒ずつ残っていた。湿った土の匂いに、夜の冷えた空気が混ざっている。 あの朝、切られた花を拾い集めた場所。 奈々さんと航平さんの式を諦めたくなくて、膝を濡らしながら花を並べた場所。 今は、新しい苗が列を作っている。名札には、庭師さんの字と、志保さんの字が混じっていた。几帳面な線の隣に、少しだけ迷ったような線。見分けがつくようになった自分に、私は小さく笑いそうになった。「増えたね」「ああ。母さんと庭師が、勝手に増やした」 私は、思わず湊を見た。 母さん。 その呼び方が彼の口から自然に落ちたことに、少し遅れて胸が熱くなる。 湊は気づいたのか気づいていないのか、少しだけ眉を寄せた。「何だ」「ううん。いいな、と思って」「何が」「湊が、今の言い方を普通にしたところ」 彼は一拍、黙った。 そして、気まずそうに視線を苗へ戻す。「……聞
湊は、デスクの上で組んでいた指をほどいた。「表へ戻すつもりはない」 声は静かだった。冷たいというより、境界線を引くための声だった。「わかっている。本人も望んでいないそうだ」「望む、望まないの問題ではない。ただ……」 湊は少しだけ視線を落とした。「誰にも見られない場所で毎日働くなら、それはそれで意味がある。九龍の名前を言い訳にしないこと。それだけは守らせてくれ」 征司さんは、真面目な顔で頷いた。 その名前を聞いても、以前ほど胸がざわつかなかった。許したわけではない。ただ、彼の人生まで私が背負い続ける必要は、もうないのだと思えた。 完全な大団円なんて、たぶんない。傷つけた人が、ある日突然いい人になるわけでもない。傷ついた人が、すべてを水に流せるわけでもない。 でも、表舞台から離れた場所で、誰かが汗をかいて段ボールを運ぶ。その姿を美談にしないまま、ただ事実として置いておく。 それもまた、前に進む形なのかもしれない。 ◇ 婚姻届は、式の翌朝に提出した。 詩織姉が「不備があったら一生笑う」と言いながら同行し、湊が「一生は長すぎないか」と真顔で返し、私は区役所の窓口で笑いを堪えるのに必死だった。 受理印が押された瞬間、湊は何も言わなかった。 ただ、私の左手を握る力が、ほんの少しだけ強くなった。 あの紙切れ一枚で、私たちの気持ちが本物になったわけではない。けれど、嘘から始まった関係が、もう誰にも偽物とは呼べない形を得たのだと思うと、胸の奥が静かに熱くなった。 その日の夜、本邸に戻ると、湊は珍しくネクタイを緩めたまま、玄関ホールの写真の前で足を止めた。「また見てるの?」「悪いか」「悪くはないけど、毎回立ち止まるから、スタッフさんが掃除のタイミングに困っています」「困らせているつもりはない」「結果、困ってます」 湊は、少し不満そうに眉を寄せた。「……僕の家だ」「そういうところです」「見る権利くら
午後の会議室では、詩織姉が契約書の束を前に、征司さんを容赦なく追い詰めていた。「この条項、曖昧です。相手方の善意に期待する契約書なんて、願掛けの短冊と同じですよ」「相変わらず手厳しいな、詩織さん」「詩織で結構です。仕事中に余計な柔らかさを足さないでください」「柔らかさを足したつもりはないんだが」「なら、なお悪いです」 征司さんが苦笑しながら、指摘された箇所に赤を入れる。 詩織姉は褒めない。けれど、資料を一枚余分に用意して、黙って彼の側に置いた。「ありがとう」「仕事です」「そういうことにしておくよ」「本当に仕事です」 会議室の入口で見ていた私は、入るタイミングを失った。 背後に湊が立つ。「入らないのか」「今入ったら、詩織姉に巻き込まれるよ」「君の姉は、僕にも容赦がない」「湊がすぐ甘やかすからでしょ」「甘やかしていない」「この前、詩織姉に資料室の席を一つ増やしていました」「必要な投資だ」「言い方を変えただけでは?」 湊は、ほんの少しだけ視線を逸らした。 認めた。 言葉にはしなかったけれど、完全に認めた顔だった。 ◇ 麗華さんのアトリエにも、変化があった。 結婚式の写真が公開されたあと、彼女のドレスについて問い合わせが殺到したのだ。麗華さんはそれを、たいして嬉しくなさそうな顔で眺めていた。「評価が遅いのよ」 アトリエの作業台の前で、麗華さんは針山にピンを刺しながら言った。「世間はいつもそう。誰か有名人が着て初めて、技術が見えたような顔をするの」「でも、嬉しくないわけじゃないですよね」「仕事が増えるのは当然の結果です」「嬉しいんですね」「朱里さん」 麗華さんが、冷たい目でこちらを見る。「花嫁の表情を読む力を、日常会話で無駄遣いしないでくださる?」「職業病なので」 彼女は小さく鼻を鳴らした。 若いスタ
その言い方があまりにもさりげなくて、私はしばらく返事ができなかった。 湯気の向こうで、志保さんがわずかに眉を寄せる。「何か問題が?」「いえ」「味が薄いですか」「まだ食べてません」「では、早く」 急かされて箸を取る。 一口含むと、優しい出汁の味が舌に広がった。派手ではない。驚きもない。ただ、寝不足の朝に毛布を掛けられたみたいに、身体の奥がゆっくり落ち着いていく味だった。「……おいしい。ちゃんと、今の湊に合う味だと思います」 志保さんは、ほとんど表情を変えなかった。 けれど、菜箸を持つ指先がほんの少しだけ緩んだ。「そうですか」「湊、たぶん黙って食べて、あとでこっそり喜びます」「喜ぶかどうかは問題ではありません」「そこ、喜ぶかどうかじゃないんですか」「栄養があります」 私はとうとう笑ってしまった。「笑うところではありません」「すみません。でも、すごく志保さんらしくて」「褒めていますか」「はい。たぶん、かなり」「なら、結構です」 白い湯気が、二人の間にゆっくり上っていく。 この人は、きっとこれからも不器用なままだ。突然抱きしめたり、甘い言葉で私たちを包んだりはしない。けれど、朝のキッチンで鍋を温める。塩の量を測る。由理子さんのノートを開き、今の湊のために味を探す。 それが、志保さんの愛し方なのだと思った。 ◇ 九龍ホテルの婚礼部門は、相変わらず慌ただしかった。『Imperial Vows』の正式ローンチ後、問い合わせは予想以上に増えた。華枝様の企画書、奈々さんと航平さんの式、そして私たちの結婚式。話題性だけで来た人もいたけれど、打ち合わせを重ねるうちに、求められているのは豪華な装飾だけではないのだと、何度も思い知らされた。「小さくても、母に見せたい式にしたいんです」「再婚なので派手にはしたくないけれど、子どもたちには、ちゃんと伝えたいんです」「親族の事情が複雑で&h